死後の世界。
それを考える前に、現世とは何かを考えてみよう。
「不思議電車」では、現世は“巨大な電車”として描かれる。人間の誕生は、車掌である死神が、魂を電車に放り込むことからはじまる。
『絶えず魂をおくりこまないと、絶滅しちゃうからな……』
そこで生まれたのは、水木サンの幼少時を彷彿させる哲学ベビイだ。幼稚園にも行かないうちから、『そう、オレが気づいたときは電車の中だった。(略)考えてみれば、そこに生まれてしまったんだ。ただそれだけのことかもしれない』と、黙考する。
小学生になって寝坊をしていると、車掌の死神が起こしにきて、『この電車に乗ったら、寝る時間とか笑う時間なんかないよ』と、いきなり現実の厳しさを突きつける。
少年が『じゃあ、オレ、働いたフリしているよ』とかわすと、死神は、『それもいいけどね。ボヤボヤしてると餓死するぞ』と脅す。
やがて少年は大学生になり、あくせく働く両親を見て、こうつぶやく。
『お父さんたちのオドオドした生活……。そして一カ月に一度しか笑えないような生活、それが……』
と、疑問に思いつつも、主人公はサラリーマンになって、結婚。子どもができると、妻に安月給を責められる。そして父親が脳溢血で急死すると、死神車掌が来て、それは一時的な“下車”だと言う。
信じられないながらも、主人公は生活=“乗車”を続けるが、出世はしない。
「四十すぎても平社員ってのはどういうことかなあ……。オレ、無能なのかな」
実際にこう自省する無能な人は少ない。認めたくない事実だからだ。しかし、水木サンの主人公は虚心坦懐にそれを認める。だから、いろいろなことがミエル。
老いて食事をしていると、ドキドキドキンと妙な音がする。『時々、心臓が止まりかける音だよ』と主人公が言うと、湯呑を持った妻が、同情に満ちた顔でつぶやく。
「そうねえ、もう七十だもんね、おびえた人生だったわね」
これもまた、多くの人にとって、認めたくはないけれど、ほんとうのところではないだろうか。病気に怯え、災害に怯え、人間関係に怯え、圧力に怯え、正義に怯え……。
直後に、主人公は『心臓マヒ』を起こし、最期を迎える。かくも悲惨な現実だが、ここから一気に苦しみは消える。
“下車”した彼は、光の玉のようになり、守護霊と背後霊に出会い、『生きている間(電車にいる間)は気づかなかったが、やっぱり霊がついていたんだな……』と納得する。暗い夜道には、木や虫や石の光の玉(霊)もいる。
「もともと木や石や人間はそんなにへだたりがあるわけではないのです」
石の霊が言い、木の霊も、『原子の組み合わせをいじれば、同じようなものもできますからネ』と言う。
この気宇壮大な平等観を、どれだけの人が受け入れられるだろう。木も石も人間も似たようなものだと、水木サンは言うのだ。
これは「人類第四の屈辱」とも言えるのではないか(第一の屈辱は、コペルニクスの『地動説』=地球は宇宙の中心ではない。第二はダーウィンの『進化論』=人間は神が創造したのではない。第三はフロイトの『無意識の発見』=人間は無意識に支配されている)。
とかく、人間は人間を大事にしたがる。しかし、水木サンはそれを人間の勝手な思い込みだと描くのだ。
さらに守護霊は、『死は永遠の“無”ではなく、一時的な“下車”にすぎないのです』と明かし、主人公を唖然とさせる。“電車”は『山の手線みたいにグルグル回って』いるのに、『人間は一本線だと思っているから、胸が痛くなるほど心配したり、心臓がとび出るほどうろたえたりするのです』とも言われる。
“下車”している間は、『肉体という余分なものがない』から、『アクセクする必要はないし、身を守る必要もない』。『そんな至福の世界が準備されていたのですか?』と知った主人公は、思わず『神様も意地が悪い』とボヤく。
そこで守護霊が、冒頭の一言をささやくのだ。
それはそうだろう。死後の世界がどうなっているのかわからないから、多くの人が、現世の苦悶に耐え、命をかけがえのないものと大事にしたりするのだ。しかし、水木サンはこう描く。
『みなさん、安心してください。“死”は“無”ではなく、“下車”なのです』
これって、“死へのイザナイ”ではないのか。うーん。至言も冴えすぎると恐ろしい。
(『不思議シリーズ』第1話「不思議電車」より)