平和で自由で豊かな日本では、“幸福”が人生の最大の目的のようになっている。
“幸福”がよくて、“不幸”がイヤだという人は、両者に大きな開きがあると思っているのではないか。しかし、ほんとうにそうか。
死神はこう言う。
『いくら大金持ちだからといって、米のめしが茶わんに十パイも二十パイも食べられるわけでもないからのう……。いやむしろ千円、二千円の金で毎日スリルを感じる貧乏生活もまんざら捨てたものでもない』
そして、こう続ける。
「……というように……生も死もまあいわば同じようなものじゃ」
じょ、冗談じゃない、と思う人は多いだろう。特に生命絶対尊重の人は目を剥いて怒るにちがいない。
しかし、ほんとうにそうか。命を大事と思っている人は、今の生活や人生に価値があると思っているからだけではないか。
メガネ出っ歯のサラリーマン山田は、『ちょっとした間違い』で、『死亡確定表』に名前がないのに、交通事故で頓死してしまう。死神は「生も死も同じようなもの」と言い訳をして、『ゆるせ』と開き直る。『どうせいずれはくるところだ。ちょっと早めにきただけのことじゃないか』
そう弁解する死神に、山田はこれ以上ない真剣な顔でクレームをつける。
『僕は四十年間かかって幸福の準備をして、これから幸福をあじわおうとするやさきだったんです』。だから、生き返らせてくれと求める。
対して死神はこう反論する。
「ばか、誰だって未来はよく見えるもんだ。だいいち、幸福なんてありゃしない。あれは人間が勝手につくった言葉なんだ」
こういう発想は、実際にそういう側面があると思っていなければ、出てこないだろう。我々は幸福だの不幸だのと敏感に反応するが、死神=人間を超越した存在からすれば、それは空虚な幻想なのかもしれない。
当然、山田は納得しない。死神にせっついて「再生証明書」をもらい、現世に居場所があるかどうか確かめにいく。
透明な存在となった山田は、まず愛妻のいる自宅に帰る。ところが、妻はさっそく別の男を引っ張り込み、山田に対しては、『ほんとに死んでくれてほっとしたわ』と言いつつ、相手と濃厚な接吻を交わして、『同じ男性とは思われないくらいよ』と鼻息を吹き出す。そして、夫の保険金を『湯水のように使ってよ』と渡し、山田を憤慨させる。
ショックを受けた山田が、大学に行っている出来すぎの息子のところに行くと、女とデート中の息子は、父親を『頭の悪い古い親父、ケチな親父でね』とくさし、墓を聞かれると、『土まんじゅうの上に小石が一コおいてあるだけだよ。すべて現代は合理的にやらにゃねえ』と言い放つ。
怒り心頭に発した山田は、再生のあかつきには自活しようと、会社を訪ねるが、上司たちは、『無能な人間が一人いなくなると、こうまで会社の業績がのびるとはまったく思いませんでしたよ』と笑い合い、女子職員も『あのいやらしい中年の山田さんが亡くなって、ほんとによかったわね』と、喜んでいる。
山田はトボトボと墓地に引き返しながら思う。『死を悲しんでるのは僕だけじゃないか。いや、むしろみんなで僕の死を祝福してるじゃないか』
中年とは『いくばくかのゼニの力でかろうじて存在を許されているようなものだ』と悟り、死神の元に帰って、『ふ はははははは』と、空しい笑いを洩らす。
ホンネと建前。死んだあとで自分がどのように言われるのか。考えただけでも、オソロシイ。いや、それはお互い様だろう。
因みに、医師として多くの死を目の当たりにすると、あまり死に触れたことのない人に比べて、生と死の境目が曖昧になる。最愛の家族の死を、この世の終わりのように悲しむ人も多いだろうが、それは今の日本が安全で恵まれた状況にあるからだ。戦争とか、飢饉とか、疫病とかで、大量の死が発生すると、印象も変わる。そんなことはないと言い張る人もいるだろうが、人間はどんなことにも慣れる。
いずれにせよ、死はどうせいつかは行くところで、いつ死んでも「ちょっと早めに行っただけ」というのは、私の中では動かしがたい事実である。
(『シリーズ・日本の民話』「帰って来た男」より)