時間とは何か。
多くの人は時間が存在すると思っている。だが、時間を見た人はいないし、取り出すことも、保存することもできない。計ることはできるが、それは単に秒針の動きや振り子の揺れを見ているだけだ。
そもそも我々が時間を実感するのは、地球が自転しているからではないか。1日が繰り返されるから、それを単位の基準にした。もしもずーっと昼間が続いていたら、時の移ろいは感じにくいだろう。それでも草木が成長するというなら、完全な暗闇で、自分ひとりだけの存在となって生きていたら、果たして時間を感じるだろうか。何も見えない、何も聞こえない、何も動かない空間。たとえば宇宙の果てとか、真っ暗闇の洞窟で一生をすごせば、時間の概念は生まれないのではないか。
つまり、我々が感じている“時間”は、たまたま自転する惑星に生まれたがゆえの錯覚かもしれないということだ。その証拠に、同じ3分でも、面白いマンガを読むのと、カップ麺の出来上がりをじっと待つのでは、長さの感じがまるでちがう。私の父も「時間は有益に使おうと思えば思うほど、足りなくなる」と言っていた。
「極楽テレビ」という作品では、竹藪に迷い込んだ水木サンが、「永生術学校」という不死の方法を教える学校を見つけ、聴講生となる。そこで「時間盗法」の講義をしている竹林仙人が、冒頭の一言を述べる。
この宇宙で人間だけがゆったりした時間を与えられないのは、何者かが時間を盗んでいるからだと仙人は言う。鬼太郎が老人になったような『大仙人』は、“時間盗り”の名人で、何百年も生きていると言われ、水木サンが会いに行くと、若返りのために“時間袋”に時間を注入するには十億円くらい必要と言われる。そんな大金はないが、長生きしたいという人には、『下級仙人』が扱う“永生術”があると教えられ、水木サンは髭を生やしたねずみ男の『ねずみ先生』のもとへ行く。ねずみ先生の術は、まずいったん死んで妖怪になり、ふたたび人間に生まれ変わるというものだった。
水木サンがそんなことは聞いたことがないと、不信を表明すると、ねずみ先生は、『あんた、人生の秘密を誰がやすやすと口外しますか』とたしなめてから、冴えた一言を発する。
「“すごい”ことは常に隠されているのです。それでこそ“すごい”のです」
つまり、世に現れていることは、さほどすごくはないということだ。
水木サンはねずみ先生の指示に従い、死後の世界に放り込まれる。妖怪の指図で光のトンネルを抜けると、カマキリに生まれ変わっているのに気づく。苦労してねずみ先生のところにたどり着き、『このザマはなんだ。誰がカマキリなんかに!』と怒る。ねずみ先生は悪びれることもなく、死んだままになることもあるのだから、虫に生まれたら感謝すべきだと言い、カマキリの水木サンにこう諭す。
「何もない状態からすれば感謝すべきですよ」
そう、すべては比較の問題ということだ。
だいたい、自分の境遇に不満を抱えている人は、それよりよい状態を基準にしているから不服なのだろう。もっとひどい状況を考えれば、まだましだと思えるはずだが、今は忍耐より文句を言うことが流行っているから、なかなか満足が得られない。
カマキリの水木サンはねずみ先生に踏み潰され、ゴミ箱に捨てられる。そこでテレビに『完』の文字が現れ、『自分が死んでいるのに気づかない者がみる“夢テレビ”なんだな』と、水木サンは気づく。そこに『大国主命の使い』と称する大柄な妖怪が現れ、コミックのアイデアであまねく人に霊界の存在を伝える使命を水木サンに与える。
『おまえは招かれたのだ』と言う妖怪に、水木サンが『そんな!』と困惑すると、妖怪は、『バカ者-ッ! 世の中に偶然は一つもない!』と怒鳴り、こう言う。
「おまえは自分で自分のことをしたと思っているが、それはちがう。すべて影で私が動かしてきたのじゃ」
偶然としか思えないさまざまなアイデアも、霊界からの指示だというのだ。
私もひょんなことから小説のプロットが湧くことがある。ふだんはぜったいにしないことや、たまたま巡り合わせたことから、新作のストーリーやテーマを思いつく。なぜそんなことが湧き出たのかわからない。それは努力や才能とは別に、霊界から操られていると考えたほうが納得がいく。
(妖怪変化シリーズ第19話「極楽テレビ」より)