【40】戦争がおわると軍事評論家はすぐ失職するんです(軍事評論家)

©️水木プロダクション

 これは『ムーの地下帝国』の男が、軍事評論家に化けて、ねずみ男の前に現れたときに出るセリフだ。失業中のねずみ男に取り入るため、自らも失職したことを打ち明けるのである。

 ねずみ男は『なんだ、テレビにでてたとおもったら、もう失職かい』とあきれ、軍事評論家も『ナサケないことです』と応じる。

 男の発言に、ねずみ男が『湾岸戦争の軍事評論家にばけてはなすほどのことはある』と感心する。湾岸戦争時の軍事評論家と言えば、故・江畑謙介氏が思い浮かぶが、この人物も江畑氏にそっくりで、水木サンの似顔絵力がいかんなく発揮されている。

 それはさておき、この冴えた一言は、軍事評論家が潜在的に、戦争の継続を願っていることを示唆している。もちろん、表立っては口にできない。たいていは、「一刻も早く平和が訪れることを願っています」みたいな“決まり文句”を言うが、本音では自らの不利になるようなことを願うわけがない。

 似たような状況は、平和主義者にも言えることで、熱心に平和運動に携わっている人ほど、戦争がなくなることを無意識に危惧している。平和が達成されてしまうと、批判の対象がなくなり、出番も存在意義もなくなるからだ。

 同様に、差別反対運動の人たちには差別が必要で、その証拠に、現実にはほとんど差別などなくなっているのに、些末な事実を取り上げて、「差別だ!」と糾弾したりする。当事者は別に差別されているとは感じていないのに、運動家の指摘で、そうか、自分は差別されていたのかと、よけいなことに気づいたりする。

 人権擁護派や格差撲滅運動や、貧困対策、薬害糾弾の人々も似たようなものだろう。いずれも重要で、かつ人道上、不可欠のことであるのは言を俟たない。だが、熱心に関われば関わるほど、その営為に秘かな快感が生じ、本来の目的からはずれて、運動そのものが目的にすり替わる危険がある。もちろん、当人たちは否定するだろうが、そうなると無意識のうちに、問題となる事象を待望してしまう。

 困っている人がいたら、助けるのが当たり前だ。助けたら“よいことをした”という快感が伴う。そこで止まればいいのだが、その快感に酔ってしまう(あるいはほかに快感を得る対象がない)と、無理から困った人をさがしはじめる。これが困るのである。

 一時、「感動ポルノ」が問題になったが、これは頑張っている障害者を見て、「感動した」「力をもらった」などという反応を意図的に引き起こすのは、ポルノで性的興奮を煽るのと同じだという鋭い指摘である。発信元はオーストラリアだが、日本で24時間延々と流されるテレビ番組などに感動している人々には、耳の痛いことだろう。

 似たような状況は、医療の世界にも当てはまる。

 新型コロナ肺炎が脅威となったとき、世間は医療者への感謝を大いに表明した。決まった時間に拍手を送ったり、目立つ建物を青い光で照らしたり。現場で実際に大変な思いをしている医療者たちは、そんな腹の足しにならないことで、喜ぶこともさほどなかったろうが、それまでの医療不信の状況よりはましだと感じたのではないか。大変な目に遭っている最中には、一刻も早くコロナの終息を願っただろうが、完全に終息しかけると、適度な脅威・・・・・は残ってほしいと、無意識に思うかもしれない。

 イヤがられるようなことばかり書いたが、「地獄への道は善意で敷き詰められている」とも言われる。善なる行動を善で止めておくためにも、“善”の深層に潜む“誘惑”に目を凝らすのも無駄ではないだろう。

(鬼太郎国盗り物語「決戦!箱根城!!の巻」前編より)

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