【50】だけど、文化があまり河童を幸福にしないことがわかったので、河童は自然に帰ったのだ(河童のかん平)

©️水木プロダクション

 文化は人間を幸せにするために発展する。

 ある程度までは、そうだろう。だが、適度な発展を超えてしまうと、文化も文明も、得てして本来の目的を見失ってしまう。

『河童の三平』は、河童にそっくりな少年『河原三平』が、河童の国に迷いこみ、人間界に「留学」してきた河童の『かん平』とともに、さまざまな体験をする物語である。

 河童の長老が『河童紀元一万年祭』があるからと、息子のかん平を呼びにくる。三平が河童紀元は1万年というのに疑問を呈すると、長老は『河童は古い種族じゃからな』と答える。

 かつて日本は1940年に、神武天皇即位から2600年ということで、「紀元二千六百年記念行事」を華々しく行った。国威発揚の国民歌まで作られ、サビの「〽紀元はニセーン六百年」というフレーズは、私も子どものころに、懐メロとして何度か聞いた。西暦より660年も古いので、何となく日本のほうが欧米より歴史があって、エライ気分に浸るのに都合がよかったのだろう。

 それに比べ、河童紀元は1万年である。2600年で喜んでいた人間である三平が、疑いを抱くのも無理はない。河童の国にもどると、河童たちは何もない岩の上に集まり、『クワックワックワ』と鳴いている。それを見て、三平はその後進性に、『河童紀元一万年なんてほんとかなあ?』と、ふたたび首を傾げる。

 すると、かん平が『人間は遅れてるからなあ』と、優越の目で三平を見てこう続ける。

『河童は大昔は人間よりもすごい文化をもっていたんだ』

 そのあとで冒頭の冴えた一言をつぶやくのである。

 進みすぎてあまり人間を幸福にしていないのは、医療も同じだ。本来は人々に安心を提供すべきなのに、今は医学が進みすぎて、不安ばかりが増大していないか。発がん物質、放射線の危険、認知症の心配、うつ病、難病、発達障害に、無益な延命治療……。

 安楽死の問題だって、なまじ医療が命を延ばすから、苦しいまま死ねない状況が続くのであって、むかしの人はみんな安楽に死んでいた。がんの終末期の苦しみなどは、医療が進む前は、そんな壮絶な苦痛をもたらす前に、患者のほうが先に亡くなっていた。むろん、器械に生かされることもなく、チューブだらけになることもなしに。

 人間ドックやがん検診も、そのおかげで病気が早期発見されて、命拾いをする人もいる反面、「要精密検査」の判定が出て、ショックを受け、時間とお金と労力を無駄にする場合も少なくない。それでも、わずかでも命拾いする人がいるなら受けるべきだと言うのなら、検査被曝による発がんの危険を考えれば、わずかでも検査でがんになる人がいるのなら、余計な検査はすべきでないとも言えるだろう。

 オックスフォード大学で行われた研究によると、日本は検査被曝によってがんになった人の割合が、全がん患者の3.2%──すなわちがん患者の約30人に1人は検査によってがんになった──とされ、1%前後である英米に比べて3倍も高いばかりか、調査15カ国中でダントツの1位。

 さらに言うなら、がん検診はもちろん、人間ドックでも、調べない、あるいは見つかりにくいがんはいくつもあり、検査を受けていれば安心などということはまったくない。心配しだすとキリがなくなり、適当に安心するための検査は抜けが多く、マジナイかお守り程度の効果ということにもなりかねない。

 同様に終末期の延命治療も、ベストを尽くすとか、やるだけのことはやったという見せかけの満足感は得られるが、実際には害のほうが大きい。

 私は長年、在宅医療に関わって、在宅での看取りを多く経験したので、在宅死の利点を実感している。点滴はもちろん酸素マスクもせずに、静かに看取る死は、まるで江戸時代の看取りのようだが、事前に十分な説明をしておけば、本人も家族も安らかで、厳粛な穏やかさに満ちている。

 医療は死に対して無力なのに、人工呼吸やら輸血やら心臓マッサージやら、ドタバタと医者がアリバイ作りをするような処置で、迎える病院での死は、どう考えても好ましいとは思えない。

 そういう現実に、気づく人が多くなれば、人間も自然に帰る日が来るのかもしれない。

(「河童の三平」より)

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