若いころ貧乏に苦しめられた水木サンは、鬼太郎や悪魔くんがヒットして、売れっ子マンガ家になると、今度は多忙に苦しめられた。
その状態を水木サンはこう書く。
『五十五歳をすぎて、毎日十時間労働にはげむのだった……。いや、それは幸福な状態なのだといつも自問自答してみたものの、ほんとうにそうだろうか』(「『昭和史』第8巻)
疑問に駆られつつ、水木サンは、『万年ベタマン』(絵がヘタでベタの墨しか塗れない)のアシスタントが、人一倍希望に満ちているのを見て、幸せとは何かを考える“幸福観察者”になった。そして会員1名の「幸福観察学会」を立ち上げるのだが、マンガの中ではネズミ男が学会の会長になっている。
それを知った荒俣宏氏がモデルの半妖怪・アラマタコリャマタ(ときにアリャマタコリャマタ)が、ネズミ男に冒頭の苦言を呈するのである。
アラマタコリャマタが、幸福は『自分で努力してつくるもんじゃないの』と諭すと、ネズミ男は冴えた一言を返す。
「そりゃあおかしいじゃないか。ラクこそ幸福とちがうか? 鈍物!」
この状況で、私はネズミ男に一票を投じずにはいられない。
若いころ、勉強がいやで、私はいろいろなリクツをこねては、勉強をしなくてすむ言い分を考えた。その中のひとつが、「ラクこそ幸福」という考えだ。
よく知られた寓話だが、何もせずのんびりと寝そべっている男が、あくせく働く男に、なぜそんなに働くのかと訊ねる。男はしっかり働いて、金持ちになるためだと答える。なぜ金持ちになるのかと聞かれ、男はいい生活をするためだと答える。いい生活とは何だと聞かれ、何もせずのんびりと寝そべっておれるような生活だと答える。
それならはじめからのんびりしていればいいではないか。つまり、勉強や努力は空しいのだと、高校生のころの私は、大きな欠落のあるリクツにすがって、マジメに勉強する同級生たちをバカにしていた。
その報いで、同級生たちは見事に志望校に合格し、私は予備校に行って、地獄の1年を強いられることになる。
それでもやはり、ラクこそ幸福という思いは、今も抜きがたい。ただ、若いころとちがうのは、大きな欠落(先立つもの=お金にかぎらず、実力、実績、人望、人格など=がないとラクはできない)に気づいているので、イヤイヤ努力と我慢と修練に励んでいることだろう。
「不思議シリーズ」の「木喰」には、600歳の命をもらったという木喰が登場し、水木サンやネズミ男たちを伴って、バスで木喰上人の足跡を辿るツアーに出る。その過程で幸福とはナニカをさぐる。
興味深いのは、参加者の作家志望の男が、木喰の創作が『夢の知らせ』であることを聞いて、『人間、生まれた時は、“自分”といえるものは何もないですよ』というところだ。さらに、『人間は努力して自分で自分をつくる』『自分で勝手に思いこむ……というわけ』と続き、水木サンが『それでいいんだナ』と肯定する。木喰もそうであり、我々もまたそうだということだ。
冒頭の一言にもどると、“幸福”は簡単には手に入らないのであり、手に入れるためには努力が必要で、それは苦しいが、苦しければ必ず“幸福”が手に入るともかぎらない。“ラクこそ幸福”ということを忘れずに苦しまなければ、ラクはできないのである。
(不思議シリーズ第9話「木喰」より)