【59】おまえ、天下の三毛先生に対して、なんということをいうのだ(アシスタントの池山)

©️水木プロダクション

 三毛先生とは、一時、水木プロでアシスタントをしていたつげ義春で、この叫びを発する池山は、同じくアシスタントだった池上遼一がモデルである(『昭和史』第7巻『講話から復興』では、同じマンガが本名で引用されている)。

 怒鳴られているのは、【58】に登場した問題児アシスタントの豊川だ。

 豊川はほかのアシスタント同様、水木サン宅のアシスタント部屋に寝起きしていたが、故郷から荷物を運んでくることになり、住む部屋が必要になる。その話を聞いた『三毛さん』が、『近々、引っ越そうと思っているから、そのあとにでもきたら』と声をかける。ところが、三毛さんはぐずぐずしてなかなか引っ越さない。豊川は何度か催促するが、煮え切らないので、『部屋はまだあかないのですか?……。三毛さん!』とタバコの煙を吹きかけて迫り、ついに『三毛ちゃん』と呼ぶ。

 これを聞いた『池山くん』が激怒。飛びかからんほどの勢いで、冒頭の怒声を発するのだ。

 今の若いマンガファンにどれくらい知られているかわからないが、つげ義春と言えば、『ねじ式』『ゲンセンカン主人』『無能の人』と、超現実的な作品(いずれも映画化されている)で知られる大御所で、あまりの寡作からほとんど伝説と化した漫画家である(近年では 2020年に欧州最大の漫画の祭典、アングレーム国際漫画祭で、特別栄誉賞を受賞したので、知っている人もいるだろう)。

 かたや、池上遼一は、私の世代では『I飢男』や『男組』などで知られる劇画の第一人者で、現在も「ビッグコミックスペリオール」などで活躍している。

 池上は水木プロに来る前からつげ義春を尊敬していたらしく、水木プロで対面したときは感激したという。その憧れの大漫画家に対し、不遜な呼びかけをした豊川に激怒したのは当然と言えよう。

 このあと、豊川がさらに部屋の明け渡しを要求すると、『三毛さん』は『私は去っていきます』という『書き付け』を残していなくなる。アシスタントが『この世から去ったんじゃない?』と洩らすと、一大事とばかりに、水木プロ総出で『三毛さん』のアパートを調べにいく。飛び込み自殺を疑ったアシスタントが、『京王線の線路伝いをさがしてみます』と言うと、水木サンまでが、『死体を発見したら、すぐ葬儀屋へ』と言う始末。『池山くん』も涙を浮かべて、『なにしろセンサイな詩人ふうな人やったから……』とつぶやき、原因を作った豊川を、『おまえが三毛さんをあの世に追いやったんだ!』と責める。豊川は平然と、『ぼくはなにもあの世にまで引っ越しせえとは、いわなかったですよ』と、開き直って、またも『フーッ』とタバコの煙を吐く。

 私はこのエピソードが大好きで、読む度に快感を覚えるが、水木サンも気に入っていたのか、複数の作品で描いている(『漫画狂の詩=池上遼一伝=』『ねぼけ人生』など)。水木しげるマニアの私は、もちろんつげ義春ファンでもあり、作品はマンガのみならず、エッセイや対談なども多く所蔵している。

 そのご本人を一度だけ、実際に見て感激したことがある。2016年1月31日に青山葬儀所で開かれた「水木しげるサンお別れの会」の懇親会の会場に、フラリと登場したのだ。登場したと言っても、もちろんスピーチなどするはずもなく、ふーっと現れ、前方にいた水木梁山泊の面々(池上遼一氏をはじめ、南伸坊氏、呉智英氏、松田哲夫氏など)のところに吸い込まれていった。その場にいた人びとも、まさかつげサンが来るとはと、驚きつつも歓迎し、しばらく談笑していた。つげサンはジャンパーによれよれのジーパンのようなラフな恰好で、しばらく散髪に行っていない感じの半白髪頭で、いかにも人知れぬところで隠棲している伝説の人物にふさわしい風貌だった。

 会は続いていたが、つげサンは現れたときと同様、フーッといなくなりかけたので、私はそっとあとを追った。会場から出たところで話しかけようかと思ったが、つげサンには何か近寄りがたいオーラがあって、声をかけられなかった。臆したのではなく、ひっそり生きている稀少種の蝶か何かを見つけたとき、網をかざせずにいるというような心持ちだ。

 さて、『三毛さん』が行方不明になったあと、水木サンはついに豊川を水木プロから追い出す。行く当てを失った豊川は、ガード下でフーテンみたいな若者に、『どう、おれんちにこないか』と誘われ、廃車置き場の車に入り込む。そこで『夢の国へ行けるぜ』と睡眠薬をもらい、そのまま野宿するようになって、最後は睡眠薬で朦朧となったまま、ドブ川に落ちて死ぬのである。

 新聞の朝刊に『新宿でフーテンが水死』という記事が出て、水木サンは驚く。奥さんは『まさか自殺じゃないでしょ』と気遣うが、水木サンは焦げたパンをかじりながら、非情な一言で作品を閉じる。

『まるで虫けらが死んだように、だれもかえりみるものもなかった……』

(「ドブ川に死す」より)

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