【10】人生はそれでいいんだ……(丹角先生)

©️水木プロダクション

  さて、水木しげるの慧眼の中でも、その迫力において特に有名(『水木しげる漫画大全集』64の帯にも採用されている)かつ意義深いセリフの登場です。

 テーマは「錬金術」。ボロ長屋の一室で、ちょんまげ姿のメガネ出っ歯が、すりこ木で壺をかき混ぜるところから、話ははじまる。

 あたりには雑多のものが散らばり、横でヘチマ顔の妻が猫の頭を茹でている。丸顔の息子・三太が、壺にガマの油を投入すると、親父は『くくくく』と、懸命にすりこ木をこねまわす。異様に緊迫した雰囲気の中、茹で上った猫の頭を壺に入れ、三太が「四精七体」の粉末の投入を促すと、妻が『早く神棚にお灯明をあげて』と急かしつつ三太に言う。

『いよいよ猫の頭が金になるのよ』

 父親はいっそうすりこ木に力を入れ、妻も興奮のボルテージを上げる。

 そこへ錬金術を指導している丹角先生ことねずみ男がやってきて、『いよいよ成功したか』と、緊迫の表情で訊ねると、父親は『先生にご指導いただいた無上九還丹の秘法で……』と答えるが、術は失敗に終わる。

 どこかに落ち度があったのだ、次は唐土伝来の「もがりの術」を併用してみたらどうかと、ねずみ男が勧めると、妻は早くもその気になって、材料を買い集めるため、質屋へと出向く。

 三百六十五回目の実験に失敗したことで、三太は錬金術に疑問を抱く。父親はそんな三太をたしなめ、錬金術さえ成功すれば、借金も返せるし、子々孫々に幸福をもたらすと説明する。

 そして、冴えた一言を発する。

「よく世の中にふところ手をしながら遊んで暮らす奴がいるだろう。あれはみんな祖先が『錬金、錬銀の秘法』を発見したからなんだ」 

 たしかに、小石を金に変えることができれば、カネの心配はなくなるだろう。働く必要もなくなり、贅沢もし放題になる。

 世の中には、どんな悪いことをしているのか知らないが、通常の努力ではとても手の届かない豪邸に住んでいたり、高級車を乗りまわしたりしている人がいる。

 その一方で、金の先物取引や、未公開株の買い付け、マルチ商法など、投資詐欺の類いは後を絶たない。被害に遭った人は気の毒だが、そもそもは、錬金術のようなうまい話に乗って、ひと儲けしようと企んだことがコトの発端ではないのか。

 いや、そんな儲け話ばかりでなく、“幸福”や“成功”や“名誉”を夢見て、懸命に努力する人は多い。汗水流して、言われたことを信じて、まなじりを決して頑張る人々。その熱心さは、ボロ長屋で錬金術に没頭するメガネ出っ歯に相通じる。

「もがりの術」を試した彼は、今度こそはと期待するが、結果、大爆発を引き起こして、家ごと吹き飛ばされる。しかし、失敗を確認してもなお、メガネ出っ歯は妻ともども狂おしい表情で、『ひひひひひひ』と笑うのだ。

 ト書きがこう説明する。

「別に気が狂ったわけではない。よく、熱心な宗教家や奇人が、希望も何もないような生活をしていながら、希望にみちみちた笑い声を発することがある。その笑いと同じ笑いなのである」

 しっかり者の三太は、両親の営為の虚しさにあきれ、ねずみ男に、『僕の両親をこれ以上まどわさないでください』と直訴する。ねずみ男はいかにも心外とばかりに言い返す。

『おまえたちが幸福になったのは、錬金術をはじめたからじゃないか。瓦が金になりはしないかという果てしない希望。それによってもたらされる充実した日々……』

 しかし、いつまでたっても金は出ないと、三太が反論すると、ねずみ男が冷徹にこう諭す。

「錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ」

 そして、冒頭の一言。

 このコマの迫力は半端ではない。縦が全体の1/10ほどで、横が全幅の狭いコマいっぱいに描かれたねずみ男の目が、強烈にかますのだ。

 さらに、こう続ける。

「この世の中にこれは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね。すべてがまやかしじゃないか」

 三太はそれを聞いて『はっ』とする。そして最後のコマでは、農民が懸命に耕した田んぼの真ん中を、ひとり悄然と帰路につくのである。

 この水木しげるのニヒリズムに勝てるものがあるだろうか。平和も、自由も、安全も、思いやりも、伝統も、愛国も、愛情も、豊かさも、健康も、すべては人間の都合、その人の思い込みにすぎない。その証拠に、自然も動物もそんなものには一顧だにしないし、そもそも、地球が消滅すればすべては消え去る。

 これこそ真の価値だ! と絶叫するものを持つ人もいるだろうが、それも長い目(1万年単位の)で見れば、いつどのように変容するかもしれない。我々は刹那的に、かりそめの価値を信じて生きる以外にない。そして、「人生はそれでいいんだ……」

(「錬金術」より)

→公認サイト「久坂部羊のお仕事。」

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