さて、水木マンガの中でも、取り分け有名な作品、「勲章」の登場です。
丸顔の少年が無心にイモを食っていると、ねずみ男が『じゃま』と言ってどかし、天女から奪った羽衣をまとい、空中を飛びまわる。
『とうとう人類の夢を実現したぞ』とうそぶき、国宝に指定され、正一位勲一等の勲章をもらえると喜ぶ。
すると、少年が『きのうまで馬の糞を食って泥棒をしていたような男に、勲章なんかもらえるものか。太政大臣はそんなバカじゃねぇぞ』と嘲る。ところが、御殿から空を飛ぶねずみ男を見たメガネ出っ歯の太政大臣は、『アレマ、とぶじゃないの。アレ国宝ヨ。正一位勲一等菊花大授章をあげて』と部下に命じる。
少年が『死んだ者にやるならまだしも、生きている官吏や汚職議員になんで勲章なんかやらなきゃあならねぇんだ』とボヤくと、太政大臣は家来に、『勲八等をあげるからいじめてきなさい』と命じ、少年は家来に殴られる。
一方、勲章をもらったねずみ男は、女官たちに取り囲まれ、『サインして』『「宇宙の英雄」キッスしてっ』などともてはやされる。それを見て少年は、『女の子はあれだから困る』と嘆息する。
その場を離れた少年は、草むらで泣いている天女に出会い、悪い男に羽衣を奪われたという話を聞く。傍らにはねずみ男の汚い皮衣が引っ掛けてある。すべてを理解した少年は、その皮衣を持ってねずみ男のところに行き、寝ている間に天女の羽衣とすり替える。
翌日、女官たちにせがまれて、ねずみ男は『じゃあ1回だけヨ』と飛行を披露しようとするが、当然、自前の皮衣では飛べない。地面に激突したのを見て、少年が嘲笑すると、ねずみ男はギョッとしながらも、『「宇宙の英雄」に対して失礼じゃないか』と言い返す。
『ちょっと調子が悪かっただけだ。太政大臣のパーティにだって出席しているレッキとした有名人だ』と開き直り、見物人たちに『この失礼な男をつまみ出して』と命じる。
『失礼なのはあの男じゃねぇか』と少年が抵抗すると、ねずみ男が胸の勲章を指さしながら、冒頭のセリフを突きつけるのである。
その自信満々の表情。大衆を味方につけた強み。見物人たちも、『そうだ』『それに彼は名士だ』と口々に言い、少年を袋叩きにする。
そこで少年はこう嘆く。
「勲章だとか名士だとか、なんだか肩書きさえついていれば、世間のやつは中身も調べないで信用しちゃうんだからたまんないよ」
2020年に新型コロナウイルス騒ぎが起こったとき、テレビで何やかやと説明する専門家を見ながら、私は首を傾げざるを得なかった。彼らの発言がまちがっているというのではない。まだはっきりとわからないことを、さもわかったように語ることに疑問を感じたのだ。
たとえば、アルコール消毒や手洗い、マスクの着用がどれほど有効なのかについて、科学的な根拠はない。科学的な根拠を得るには、手洗いやマスク着用をするグループと、しないグループを無作為に分け、一定期間比較して、感染予防について有意な差があるかどうかを解析しなければならない。これを「無作為化比較試験」というが、そんな実験は行われていない。
アビガンが重症化を阻止するといわれた時期もあったが、のまなくても重症化しなかった人が、たまたまアビガンを服用したからといって、有効だという根拠にはならない。この場合の無作為化比較試験は、アビガンをのまないグループの人を、重症化の危険にさらすことになるので、人道上許されない。
さらに言えば、仮に科学的な根拠が得られても、偶然の要素は排除できず、個別の人に有効かどうかは保証のかぎりでない。つまり、予防も特効薬も、半ば幻想にすぎないということだ。
一連の報道を見ていて、私には専門家の肩書きで登場する一部の医師が、勲章を指さすねずみ男に似ているように見えたし、その発言に深くうなずくMCやコメンテーターたちは、ねずみ男を取り巻く女官や見物人と同じに見えた。
専門家やテレビ関係者は、世間がわかりやすい答えを求めるから、あのように振る舞わざるを得ないのだろうが、わからないことにも答えを求めるのが世間の悪いところであり、わからないことをわからないと言えないのが、専門家のつらいところだ。
因みに、水木サンは1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章している。一部に、勲章の無意味さを描きながら、自分は勲章をもらうとはと、揶揄する向きもあったが、水木サンは勲章そのものを批判しているのではない。勲章をほしがったり、ありがたがったりする心理の愚を描いているのである。
(「勲章」より)