精神的な快感には、2つの種類ある。ポジティブな快感と、ネガティブな快感だ。
自分が努力して何かを成し遂げるとか、幸運に恵まれたときに得られる快感は、ポジティブな快感である。記録を更新したとか、素晴らしい作品を作ったとか、ダイエットに成功したとか、あるいは、好きな人に愛を告白されたとか、たまたまいい物件に出会えたとか……。
かたや、他人を見下したり、嘲笑したり、だれかの不幸を見て感じるのは、ネガティブな快感である。その最たるものが、差別であり、イジメであり、軽蔑であり、否定だろう。人の噂話や、他人に不寛容になること、クレームで相手を困らせたり、おバカタレントをイジる番組を見て笑うのも同様だ。
ポジティブな快感は、努力や幸運が必要なので、なかなか得られない。だが、ネガティブな快感は簡単に得られる。
我々は知らず知らずのうちに、ネガティブな快感をむさぼっているが、それは恥ずかしいことなので、たいていは気がつかないフリをしている。
特にエライ人、医者とか、教授とか、社長とか、有識者と呼ばれる人たちは、この傾向が陥りやすい。実際、優位な立場から、自分が知っていることを他人に話すときには、ネガティブな快感が忍び込む。秘かな優越感である。だから、私を含め、こういう人の話は長い。
「なまはげ」はたった7ページの短編だが、ネガティブな快感を端的に描いている。
大学の角帽をかぶった青年が、タバコを吹かしながら、最初のコマからこううそぶく。
『こういっちゃあなんだけど、花の東京の大学でむずかしい勉強をしてくるってえと……この田舎の無教養な空気ってやつがたまらなくいやになっちゃうな』
この時点で、青年はかなり快感をむさぼっている。
だが、続くコマで青年は心の奥底を垣間見せる。
『とくにたまらないのが、俺のようなインテリがもてないで、そこいらの田舎のアンチャンがもてるってことだ』
どす黒い心が透けて見えるような、哀しいセリフである。
青年は自らの“教養”をもってして、心を支えようとする。『もっとも、トルストイやベートーベンも生前はもてなかった』と、無意識に己を偉人に模すのである。
『俺ほど頭のいい人間はいないもの』と、精神的自慰をしつつ、青年は神社に入り込む。
信仰の対象を、『農村の後進性を助長させる』と軽蔑し、大胆にも本殿の扉を開けて中に入る。するとそこには、角と牙を剥き出したなまはげの像が祀ってある。恐ろしい形相の仮面を見て、青年は動悸と冷や汗に見舞われながらも、『おらあ教養があるからおどろかねえぞ』と強がる。
そこへ手ぬぐいで頬被りをした村人がやってきて、本殿の外から柏手を打って拝む。御神体を信じない青年は、なまはげの仮面をかぶって、『うわーっ』と村人を脅かす。村人が『キャーッ』と悲鳴をあげたところで、冒頭のセリフが発せられる。卑劣な悦びに目覚めたのである。
青年のいたずらだと知った村人は、『おめえさん、ぼやぼやしてるとタタリがあるど』と注意するが、当然、青年は聞く耳を持たない。
仮面をかぶったまま立小便をしていると、前から、かつて青年に『ヒジ鉄をくらわせた花子さん』が歩いてくる。ふたたび青年が『ウワーッ』と、さっき以上の大声で脅すと、花子は『きやーっ』と、風呂敷包みを放り出して逃げていく。
そこで、またも青年の冴えた一言をつぶやく。
「女性をおどかすってのは、性的快感をおぼえるな。ヒヒヒヒ」
ネガティブな快感そのものである。
そういう快感をむさぼった者が、どのような結末を迎えるのか。
『教養』も勝てない空腹に襲われた青年は、仮面をかぶったまま家に帰る。母親に『タタリでもあったらどうするの!』とたしなめられて、鏡の前で仮面をはずすと、青年は『あっ!?』と驚く。
自分の顔が、なまはげになっているのだ。
(「なまはげ」より)