水木サンのマンガには、伝記物の長編がいくつかある。近藤勇を描いた『星をつかみそこねる男』、南方熊楠を描いた『猫楠』、平賀源内を描いた『平賀源内と殿様』他などだが、中でも秀逸なのは、アドルフ・ヒットラーを描いた『20世紀の狂気・ヒットラー』である。
私は中学生のころからナチス第三帝国に興味があり、ヒットラーに関する本もいろいろ読んだが、この『20世紀の狂気・ヒットラー』ほど、生身の人間ヒットラーを感じたものはなかった。
理由は簡単。ほかのすべての関連本が、ヒットラーを単に邪悪な人間、ユダヤ人を大量に虐殺した冷酷非情な独裁者としてしか描かず、人間的側面をいっさい無視しているからだ。当時から、私にはそれはズルイように思えた。いくらヒットラーでも、真剣さや、善なる思いもあっただろう。それを無視して、とにかく邪悪にさえ書いておけば、どこからも批判されないというのは、アンフェアな打算だ。
水木サンはそうは描かない。
何万人というドイツ人を熱狂させた稀代の政治家が、どのような人間だったのか。物語は無名時代の若きヒットラーからはじまる。
青年ヒットラーは、絵の才能に優れ、“芸術的画家”になることを目指して、故郷のリンツを離れ、ウィーンに出てきた。ただの画家ではなく、“芸術的画家”というところに、ヒットラー及び水木サンのこだわりがある(余談だが、ヒットラーが放浪の末、ウィーンの公立浮浪者収容所に入所したとき、ウィーン管轄地区警察署に提出した居住証明書が残っていて、そこには、「Charakter(Beschäftigung)=特徴(仕事)」の欄に、自筆で「Kunstmaler」と書いてある。「Kunst」は「芸術」、「Maler」は「画家」である。すなわち、“芸術的画家”とはヒットラー自身の認識だった)。
そこに幼なじみのクビツェックという青年が、『音楽学校』に入学して、同じ下宿で住むことになる。ヒットラーは、『芸術家になるにはウィーンでなきゃあいかんよ。ハハハハ』と、先輩風を吹かしたりするが、実は『美術学校』の受験に2度も失敗していたのだった。
クビツェックがそのことに触れると、ヒットラーは激怒して下宿を飛び出し、街中をうろつきながら、呪詛の言葉を吐く。
『くやしい。クビツェックなんかにバカにされて! オレの頭はこんなに才能にみちみちているのに落第させるなんて、教師がどうかしてるんだ、教師のヤロウがよう……』
そうひとりごちたあと、自分の頭を殴るようにして、冒頭の一言を叫ぶのだ。
高校2年生でこれを読んだ私は、自分がマンガの中に吸い込まれるような錯覚に陥り、恍惚となった。当時、私も学校の成績が思うように伸びず、勉強の苦痛と卑俗さを呪い、成績の悪さをすべて教師のせいにしていた。
マンガには、ヒットラーが、『軍人なんかに芸術なんかわかりゃしないよ』と、将校を軽蔑したり、買った宝くじがぜったいに当たると信じて、サロンにウィーン中の芸術家を集める計画に熱中したり、下宿のおばさんに、『ヒットラーさんはほんとに読書家ですねえ』と言われて、『ぼくの一番うれしい言葉だ』とほくそ笑んだりする人間くさい場面が描かれる。さらには、浮浪者収容所で、入所者からカフタンコートと山高帽をもらい、『これで芸術的画家にみえらあ』と喜んで、こううそぶく。
「このスタイルこそオレのあこがれてたスタイルだ。イヒヒヒヒ、ざまあみやがれ」
私はこの場面が大好きで、私も祖父が学生時代に来ていた羅紗のマントを祖父宅の奥から引っ張り出し、周囲から奇異の目で見られながらも、悠然とマント姿で通学したことを思い出す。
要するに、第一世界大戦前までの若きヒットラーは、カネも家柄も学歴もなく、ただ己を芸術的大天才と妄想する奇矯な青年にすぎなかったのだ。
ト書きにはこうある。
「一九一三年。彼は二十四歳であり、当人はともかく、だれの目からも彼は人生の落伍者だった」
『当人はともかく』と入れるところに、水木サンの心情が滲み出ている。紙芝居作家から貸本業界に転じ、それでも貧乏のどん底に喘いでいたとき、水木サンも世間的には、『人生の落伍者』と見られていたのかもしれない。しかし、当人はそのつもりではなかった。それが、後年の大ブレイクにつながったのだ。
マンガに話をもどせば、この時代のヒットラーには、胸に熱い志を秘めた無力な青年に共通の熱情があった。それを肯定的に書いた本はほとんどない。事実を無視せずにむしろ強調して描いているところに、水木サンの安易に世俗に迎合しない姿勢を感じる。
(『20世紀の狂気・ヒットラー』より)