当たり前のことなのに、だれもが意識しないこと。
「たたり」という短編は、たたりのある家が建っているため、土地が売れないと嘆くブローカー風の男に、サングラスをかけた初老のヤクザが、『土地が売れたら三割いただくという条件で、その家をあっしにこわさせてください』と、持ち掛けるところからはじまる。
2人が家を見に行くと、ボロボロの空き家に、『捨てられた老猫や、年老いたヤモリ、百年近く生きている野良犬やイタチのようなもの、ゲジゲジやオケラ』が住んでいる。ヤクザは『おめえらの住むところじゃねえよ』と怒鳴りつけ、老猫を蹴飛ばし、ヨボヨボの犬を殴りつけ、虫たちには大きな石をぶつける。
家に帰り、『明日からボロイ仕事にかかるから……』と、寝間着姿で布団に入ると、ヤクザはやがて冷や汗が出るほど胸が苦しくなって目が覚める。そこには異形の怪物が立っていて、『て、てめえだれだい』と聞くと、『死神だ』と答える。ヤクザは恐れもせず、『死神? そんなものがいるのかね。はじめてだ』と言い返すと、死神がニヤつきながら冒頭の一言を放つのである。
私は若いころ、外科医として何人ものがん患者を看取り、後年、高齢者医療の現場で在宅での看取りなどを経験して、少なからぬ数の死に接してきた。上手に死ぬ人もいれば、悔いの残る最期を迎える人もいて、人間の“死に方”について、いくらかのノウハウを学ばせてもらった。それを元に、『日本人の死に時』『思い通りの死に方』『人間の死に方』という新書の“死に方三部作”を書いたので、講演でも死をテーマにして話すことが多い。
上手な死に方をするためには、まず死に向き合うことが必要だ。死ぬことを受け入れ、どうすればよい死に方ができるかを考えて、その準備をすること。それは死を拒否するのとは真逆の姿勢である。
しかし、多くの人が死を拒否している。拒否すれば死なないのなら、いつまでも拒否していればいいが、いくら拒否しても、死は必ずやってくる。であればそれを直視し、早めに準備しておくほうが、上手にやりおおせるのは当然だろう。
不吉だとか、縁起でもないと言って、目を背けていても、その日は確実に近づいてくる。問題は死が1度きりのワンチャンスということだ。もし2回死ねるのなら、次はうまく死ぬのにと思いながら死んだ人は、少なくはないはずだ。
悔いの多い死とは何か。それは病院で余計な医療を受け、点滴や輸血や人工呼吸を受け、鼻や口や尿道に管を突っ込まれ、最後の最後まで検査をされ、不自然きわまりない形で迎える死だろう。
逆に好ましい死とは、寿命に従い、住み慣れた環境で、自然に近い状態で穏やかに迎える最期ではないか。【50】にも書いたが、在宅での看取りは死ぬ当人もご家族も、常に悲しみの中にもある種の納得と受容が感じられた。
「たたり」に話をもどせば、ヤクザはボロ家で猫や虫をいじめたせいで死神が来たと悟り、なんとか配慮してもらえないかと下手に出るが、あっさり却下される。地獄へ連れていかれそうになって、タラタラ汗を流しながら、『虫ケラでもいいです。この世においてください』と必死に懇願すると、ヘコキ虫に変身させられ、例のボロ家の壁にへばりつくことになる──。
なまじ医療が進んだせいで、多くの人が病院に行けばよいことがあるのではないかと思っている。元気や長生きばかり求め、毎日確実に近づいてくる死から目を背けていると、直前になって慌てるハメになる。ヤクザのように「まさか、こんなことになるとは」と取り乱しても、死は待ってくれない。そんなとき、冒頭の死神の言葉が、身に染みるのではないだろうか。
(「たたり」より)