絶妙の表現。
それはモノを実物以上にうまく言い表したものだろう。実物以上であるから、一種のまやかしである。
短編「雷石」では、『透明鉄(すなわち見えない鉄)』の原料となる『雷石(隕石)』を手に入れたねずみ男に、丸顔の忍者が『透明鉄の製法』を手に入れるよう命じられる。
忍者は『鉄を加工するニオイ』を頼りに地下に入り込み、『透明剣』を作っている老人に出会う。この老人こそが、透明鉄の秘術を持つ福島流忍術の党首・三太夫である。
百姓に化けた忍者が雑用をこなしていると、老人の息子が来て、『秘伝の草稿ができあがりました』と巻物を差し出す。三太夫はそれをチェックしつつ、冒頭の冴えた注文をつけるのである。
私もよく編集者から、「もっといい表現にできませんかね」と言われる。迫力を伝えるとか、実感を増すとか、感情に訴えるために、絶妙の表現が求められる。そこで勢い、大袈裟な文言や奇抜なフレーズを用いると、即、編集者に却下される。逆効果になるからだ。求められるのは、インパクトがあって、ユニークで、なおかつ不自然でないコトバである。
小説では「説明」と「表現」のちがいも重視される。ケチな人間を「ケチだ」と書いたら、単なる説明になってしまう。表現にするには、「彼は抜いた鼻毛すら捨てずにとっておく」などと書かねばならない(これもあまりよい表現ではないが)。「爪に火を点す」などという言いまわしもあるが、これはいわゆる「手垢のついた表現」で忌避される(はじめに使った人はスゴイと思うが)。
「雷石」に話をもどせば、三太夫は丸顔の忍者に、『透明剣』の原料が雷石でなく、『ただの鉄』だと明かす。しかも、『透明剣』は単なる針にすぎない。
『失礼ですが、こんな奥義が福島一族のめしの種で……』と聞くと、『だから人に見られまいとこんなところにかくれて工作しとるのじゃ。でも、おぬしたちが秘伝を盗もうと騒いでくれるので、わしも助かる』と、あられもない真実が語られる。
そこで三太夫はさらに冴えた一言をうそぶく。
「この空しい小石でも、説明のしようによっては金剛石のように思える」
新興宗教の勧誘、バカ高い値段で取引される骨董品や美術品、さらにはありとあらゆる宣伝、CMに通じる真実だろう。
三太夫は、雇い主である殿様にもそう思い込ませて、福島一族は優遇されているのだと告げる。そのあとで、『こんなもの見たさに命がけで飛びこんでくるうぬはふぬけよ』とすごまれ、丸顔の忍者は『タハッ』とのけぞる。地下へ入り込んだとき、『透明剣』で怪我をした尻に貼ってもらった膏薬に毒が仕込んであったと知らされ、忍者は『コロリ』と倒れる。その頭を『ポン』と扇で叩き、三太夫は『空しい一生であったのう』と嗤う。
ところが、実は丸顔の忍者のほうが一枚上手で、『毒消しを常用してる』ため、棺桶から復活して地上にもどる。
ネズミ男が貴重な『雷石』を放り出したまま寝ているので、丸顔の忍者はそれを盗んで逃げようとするが、持ち上げるとバカに軽い。そこで『雷石』が『ハリコ』であると知る。
ラストのコマで、忍者とネズミ男がこうつぶやく。
『なんてこう世の中ってイカサマが多いんだろう』
『すべておまんまのためよ』
この作品の初出は1964年6月。東京オリンピック開催の直前である。水木サンは浮かれる世間のウラに、鋭くインチキとイカサマを感じ取っていたのかもしれない。
(忍法秘話シリーズ「雷石」より)