『星をつかみそこねる男』では、土方歳三は知力に優れた軍師の役割を果たすが、近藤勇は単純な豪傑のように描かれる。
近藤は元々武州の農家の出で、単に剣術に秀でているというだけで、運よく武士の養子になり、試衛館(養父が経営する道場)の跡継ぎになったので、あまり屈折するところがない。
対して、幼なじみの土方歳三は、薬の行商などをしながら武士に憧れるが、剣術の腕を磨いても、近藤のようなチャンスには恵まれず、何とか試衛館に潜り込んで、苦労して剣の道を歩み出す。両者はそのスタートから、策略の要不要がちがっていたのだ。
前項では土方の穿った卓見に注目したが、ここでは近藤の露骨な率直さを見ていきたい。優れた知性ばかりが真実を見抜くわけではなく、豪傑の単純さもまた、単純であるが故に、あられもない真実を喝破する。
たとえば、近藤自身、自らの拠り所である武士道を、小間使いの小六が、『ほんとうにすばらしいですね』と讃美したとき、こう答える。
「そうだ。なにかというとすぐ腹を切るのだ。これがまたすんばらしいじゃないか」
さらに、「人殺しは武士道に限るよ。はははは」と晴れやかに笑う。命より建前や名誉を重んじる武士道の一側面を、あられもなく見抜いている。こんな武士道を誹謗するようなセリフは、代々のお坊ちゃん侍からは決して出ないだろう。
最後のほうで、官軍に追われて立て籠もる場面でも、にぎりめしが1個しかないとき、近藤は隊士に与えず自分で食べてしまう。自分がひもじくても部下に譲るのが物語のヒーロー像だが、水木サンはそうは描かない。自分ファーストに描く。そのほうがよほど人間臭い。
もちろん、実際の近藤勇が、そんな場面でどう振る舞ったかはわからない。しかし、官軍との決戦の前、試衛館以来の同志である永倉新八と原田左之助に、『わしの家臣として活躍するなら』と言い放って、2人を怒らせた事実などから考えても、近藤に自分ファーストの気持があったことは否めない。自分ファーストはだれにもある心情だが、にぎりめし1個で近藤のそれをリアルに感じさせる描写は、水木サンならではだろう。
ちなみに、『星をつかみそこねる男』には、近藤勇がめしを食う場面がやたらと登場する。官軍に攻め立てられ、岩倉具視宛に手紙を書いたあとでも、『ガーッ』とめしを食い、大砲を撃ち込まれた決戦の場でも小六からにぎりめしをもらい、官軍を迎え撃つ軍議の途中でも、『あとの作戦はめしを食ってから考えよう。めしだ、めしだ』と叫んだりする。
これは戦争中、ニューギニアで極度の飢えを経験した水木サンに染みついた考え──何をするにもまず胃を満足させること──が反映されているのだろう。飢餓と言えるほどの空腹を感じることのない現代日本人には、理解しがたい心情かもしれない。
さて、冒頭の一言が出るのは、本編の中盤、勝海舟が、北辰一刀流の道場主で見識も高い伊東甲子太郎を、近藤に紹介する場面である。
『伊東氏は学者でもあり……』と、勝が言うと、近藤は、『新撰組には教養が不足している』と内省し、冒頭の一言をつぶやく。
教養が不足している者は、たいてい自覚が足りないが、近藤は単純であるが故に、素直にその事実を認め、さらに大義に奉じているはずの新撰組がやっていることを、『殺人行為』と率直に認めている。
医療でも政治でも、教育、防衛、弁護士、警察、NPO等々、立派な職業は多いが、裏側には、金儲けであったり、名誉欲、自己満足、自己愛、横暴、権力欲など、好ましくない側面が潜んでいる。単純でない当事者は、往々にしてそれらに目を瞑り、自己正当化に安住する。だから世間に迷惑をかける。単純に負の側面を認識できれば、やりすぎることもないだろうに。
ついでながら、文武両道の伊東甲子太郎の行く末も見ておこう。
伊東は新撰組に加入早々、参謀兼文学師範という幹部に任じられるも、やがて離脱し、御陵衛士を結成する。その後、近藤の妾宅に招かれ、したたかに酔った帰りに、物陰から槍で突き刺されて暗殺される。下心ありそうな近藤に招かれたとき、部下が護衛を連れて行くよう勧めたのに、『心配するな。私は伊東甲子太郎だ』と言って、ひとりで行ったのが運の尽きだった。
水木サンはその場面をこう描写する。
「腕にも学にも自信のあるのが悪かった」
世の自信家諸氏には、背筋がゾクリとする言葉だろう。
(『星をつかみそこねる男』より)