自分を天才だと錯覚する瞬間。
それはたとえようもなく甘美で、エネルギーに満ち、恍惚を伴う刹那だろう。根拠はないものの、たしかな実感を伴っているので、当人には疑いようのない事実として確信される。
だが、いくら努力しても、“天才”にふさわしい作品も評価も得られない。そこで多くの人は、それが錯覚だったと気づき、恥じ入る。
そう気づいた人はまだしも幸運である。気づかない者は、しばしば自分が認められないのは、世間の理解が足りないからだと、不遇を他人のせいにしだす。そして、奇矯な発言をしたり、突拍子もない行動に出たりして、周囲から「ちょっとオカシイのではないか」と思われる。すなわち、『狂人』とまちがえられるわけだ。
(「狂」という文字も、最近の出版界では忌避される傾向にある。「キチ○イ」などと同じく、精神疾患の患者を蔑んでいると受け取られるからだ。毛頭、そんなつもりはありませんので念のため)
自分を認めない世間てバカだなあと思えば、天才の自覚も維持できるし、自分の不遇も慰められる。すると、勘ちがいのまま時間がすぎ、壮年から中年にさしかかり、1回きりの人生を棒に振ることになる。
そもそも、天才は自分を「オレ(あるいはアタシ)は天才だ」などと思わない。そんなふうに思っているモーツァルトや、紫式部は想像しにくい。
「不死鳥を飼う男」に登場する『名誉ある劇画家』は、妻に10年も新しいスカートを買ってやれない落ちぶれた存在である。モデルは水木サンご本人。
今月中に電気代を納めないと切られてしまうという逼迫状況に、妻は夫の留守中に、仕事部屋をとある老人に貸してしまう。仕方なく、夫が近所にある無人の神社で仕事をすると言うと、妻は『あんた、気でも狂ったんじゃない』と心配する。夫は、『神社なんか物理的に考えれば、木を用いて作った箱と同じことデハナイカ』と笑い飛ばし、冒頭の一言を告げるのである。
仕事机を運ばされる妻は、『昔から狂人には逆らわない方が良いというから……』と心の内でつぶやき、夫は『俺はきっとケッサクができると思うよ……』とうそぶく。
結果、マンガの原稿はできるが、家にもどっている隙に、1年に1度、神殿を清めに来る神主によって、すべて燃やされてしまう。
そこで神主から、神社は空き家ではなく、八百万の神を招くために空けてあるのだと言われ、神々が好む神殿の作り方が説明される。実は部屋を貸した老人が運び込んだ鳥かごが、その造りになっていて、神々がそこに宿っていたのである。
それを知った劇画家は、マンガなど『もうアホらしくてできない』と言い、自分も神々を招くことに専念しようと決意する。ラストのセリフはこうだ。
『あの老人のような生活こそ、俺が三十九年の間あこがれてきた生活なのだ……』
自らを天才と錯覚していた主人公が、新たな錯覚で、一生を棒に振る生活が、今またはじまる……。
(「不死鳥を飼う男」より)