信仰は人を救えるか。
万年二等兵として戦地に送られた水木サンは、爆撃で左腕に大怪我を負い、眼科医の軍医に切断してもらって、辛くも一命を取り留めた。その後、ラバウルの野戦病院に収容され、マラリアと飢えに苦しみながら療養する。野戦病院といっても、椰子の葉で屋根を葺いた掘っ立て小屋で、雨が降ると雨漏りがひどかったらしい。
野戦病院でも攻撃されないわけではなく、激しい爆撃にさらされた。そのたびに、水木二等兵は病院の前にある防空壕(斜面に穴を掘っただけのもの)に駆け込もうとするが、慌てているのでいつも入口の壁に頭をぶつける。
それを見ていた『四国の鯛船の船長』という丸顔の傷病兵のおじさんが、笑いながら、『わしのところにはぜったい落ちんから、安心しとれよ』と言う。現に、おじさんは爆撃があっても逃げず、病院の敷布の上で悠然とあぐらをかいている。おじさんは、『天理教を信じとるから』と、自らの安全に絶対の自信を持っているのである。
それに対して、水木二等兵が憤然と冒頭の一言で反論する。
信仰で確実に無事が保証されるなら、そのご本尊・神・教祖等は、真に実力があると言えるだろう。だが、現実にはまずあり得ないから、御利益がなかった場合、いろいろな説明がなされる。
たとえば、10年ほど前、私が在宅訪問医療で受け持っていたある高齢女性は、寝たきりになりたくないがために、某宗教(天理教ではありません)を熱心に信奉していた。ところが選りに選って、その宗教の集まりに参加している最中に、脳梗塞の発作を起こし、寝たきりになった。あんなに信心していたのにと嘆くと、信者たちから、「あんたは信仰心が足りなかった」と言われ、すっぱり縁を切ったと話していた。
1990年にイラクが突如、クウェートに攻め込んだとき、アラブ諸国ではクウェートに対する同情が薄かった。私は当時、サウジアラビアの日本大使館で医務官という仕事をしていたので、現地の人間に聞くと、クウェート人は高慢だから、嫌われているのだと教えられた。クウェートは“石油の上に浮いている国”と言われるほど、オイルマネーで潤っているが、それはクウェート人がこれまで熱心にアッラーを信奉したことのご褒美で、石油に恵まれないほかのイスラム教諸国は、信仰が足りないから貧しいんだと、クウェート人は思っているのだという。偶然に感謝せず、他国を見下すようにしていれば、それは嫌われるだろう。
またサウジアラビアでは、信仰の強さに驚嘆したこともある。
医務官の職務として、現地の医療事情調査のため、王立病院の外科部長に話を聞きに行ったときのことだ。調査が終わったあと、アラビア服スタイルの外科部長から、「おまえはどうして大使館なんかで働いている」と聞かれた私は、「日本の病院で、末期がん患者の医療に疲れたからです」と答えた。すると、外科部長は、「我々の病院でも、末期がん患者の治療には苦慮している」と言った。文化や季候や国民性がまるでちがっても、がんの末期医療の困難さは同じなのだなと思い、私はちょっと感動した。
そこで、「死の直前まで治療を求める患者さんに、何と言えばいいのでしょう」と、さらに共感を求めるように言うと、外科部長はこう答えた。
「そういう患者にはこう言えばいい。死んでもアッラーが永遠の魂を保証してくれる、と」
それまでの共感は吹き飛び、私はまるで「十戒」で左右に割れた紅海の対岸に立っているような気分になった──。
冒頭の一言でもわかる通り、水木サンは宗教に頼るほど弱くも呑気でもなかった。徹底した合理的発想。その一方で、妖怪や霊の存在を認めるのは、人智を超えたナニカを意識しているからで、決して矛盾しない。
それにしても、宗教のある人は強い。御利益がなくても、「それは信仰心が足りなかったから」という言い訳が、常に用意されているのだから。
(「コミック昭和史・第6巻 終戦から朝鮮戦争」より)