水木しげる版『東海道四谷怪談』では、お岩と結婚する田宮伊右衛門が、赤穂浪士のひとりとして描かれる(鶴屋南北も同作を『仮名手本忠臣蔵』の外伝として描いている)。
主君の仇を討たんと、血気に逸る赤穂藩家中において、田宮伊右衛門だけは、美人のお岩との結婚を夢見て、表向きの武士の顔とは裏腹に、『ま、それが幸福というものだろう』と考えている。
『人間、幸福でさえあれば、植木屋だってなんだっていいんだ』
このセリフは、もちろん造園業者を軽侮したものではない。建前にこだわる武士との比較で、たまたま採用されたにすぎない。それを蔑視だ、差別だとこだわるのは、木を見て森を見ずの行為である。
蛇足ながら、最近、文章を公表するとき、「××屋」という言い方には、必ず出版社のチェックが入る。「××屋」というのは、見下げた表現だというのだ。だから、「八百屋」は「青果業」、「魚屋」は「鮮魚店」、「散髪屋」は「理髪店」と書かなければならない。「チンドン屋」は「チンドン業者」とでも言うのか。『かわいい魚屋さん』は「〽かわいい、かわいい鮮魚店員さん」とでも歌うのか。
こんなことを言うと、すぐに「おまえは言われた側の気持がわかってない」とか、「心の底に蔑みが潜んでいるから出る言葉だ」とか責められる。何もそんなこと、と思うが、当然、受け入れてはもらえない。
話を伊右衛門にもどせば、仇討ちに成功して武士の本懐を遂げても、切腹などちょうだいすれば、人生は絶望だと彼は考えている。そんなとき、仇討ちの急先鋒である堀部安兵衛に、一杯どうだと誘われた伊右衛門が、それを断った帰り道に、冒頭の一言をつぶやくのである。
「××でさえあれば」と考えている人は、世の中に多いのではないか。「まじめでさえあれば」とか、「努力家でさえあれば」とか、「弱者の味方でさえあれば」とか、「平和主義でさえあれば」とか、云々。
これらは一種の思考停止である。まじめも努力もそのほかも、必要ではあるが十分ではない。現実は複雑で多様で不確実だからだ。そのいちいちを吟味するのは面倒だし、正解も見つけにくい。だから、大雑把なところで思考停止するのが楽である。しかし、それでは真の幸福は得られないと、水木サンは伊右衛門を通して示唆している。
しかし、伊右衛門もまた、簡単には幸福にありつけない。お岩に求婚するものの、御家断絶の非常時に何をたわけたことをと、お岩の父に拒絶されてしまう。
そこに登場するのが、天邪鬼が化けた中間で、お岩の父親殺害をそそのかす。驚いた伊右衛門がまじめくさった声を出すと、中間が冴えた一言をささやく。
「そんな大きな声を出しちゃいけねえよ。世の中、いいことといえば、すべてヒソヒソ声ではじまるもので……」
中間の魂胆を疑って、『すると、そなたは何者』と訊ねたときも、平然と答える。
「そんな常識的なことをいったんじゃあ、幸運はおとずれませんよ」
悪のささやきとしては、実に蠱惑的である。
常識的であることが、多くの人から幸運を奪っている。いや、逆に、大きな幸運をつかむには、往々にして非常識であることが必要ということか。いずれにせよ、凡人の頭では浮かびえない発想である。
伊右衛門も『味のある言葉だな』と感心するが、そのあとは何も考えずに、天邪鬼に魂を売り渡す。そして、周知のごとく、首尾よくお岩を娶ったものの、妻に毒を盛って殺害し、最後はその呪いで自らも狂死してしまう。
非常識の道に踏み込めば、幸福になれるというわけでもないということだろう。
(『東海道四谷怪談』より)