【6】子供がママゴト遊びでキモチのいい家庭を夢想するように、百姓、宮川久次郎は、剣術で結構、武士の気持ちにもなれ、気分もさわやかだった(ト書き)

©️水木プロダクション

 最近はママゴト遊びもめったに見られないが、かつては地面にゴザを敷いて座敷に見立て、泥団子や草を食事に模して、大人になりきるごっこ遊びがあった。

 近藤勇を主人公にした「星をつかみそこねる男」の冒頭では、勇の父・宮川久次郎の道楽が描かれる。

 久次郎は武州の農民だが、自宅に小さな道場を作り、剣術の稽古に余念がなかった。武士にあこがれる彼は、自らをただの百姓ではなく「郷士」と称し、「百姓は畠仕事が一番ですよ」と言う妻の苦言に耳も貸さない。

 剣道着にフルの防具をつけ、踊る宗教さながらのスタイルで久次郎は竹刀を振るう。我流丸出しだが、当人はいたって真剣。その姿に次のようなト書きがつく。

『竹刀をにぎっていると、なんとなく人間が一階級上ったような気がするのだろう。つい気合も新興宗教なみの希望に満ちあふれた奇声がのどをついて出るのだった』

 江戸から指導に来ている先生も、つい、『無駄な動きが多いようですなあ』と、注意に及ぶ。それでも久次郎は大口を開けて、充実した笑い声を上げるのである。

 そこにふたたび冴えたト書き。

「人間が満ち足りた気持ちになるには、なによりもこの勘違いが必要なのかもしれない」

 ママゴトは廃れたが、この勘ちがいはまだまだ健在である。

 私自身にも覚えがある。医学生の実習で着た白衣。大学の5回生のとき、実際の患者さんを診察させてもらう臨床実習があった。ふだん、ジーパンにTシャツの自分が、白衣を着て聴診器を持ったとたん、何かしら医者になったような気がしたものだ。しかも、担当の講師から、学生同士を互いに「先生」と呼ぶようにと指導されるからよけいである。そう呼ぶ理由は、学生が実習していることが患者に伝わるとよくないからだ(ここで医学生は患者をだますことを覚える)。

 はじめは面映ゆかったが、次第に慣れると違和感がなくなる。大学を卒業すると、何の実力もないのに、患者や看護師からも「先生」と呼ばれるようになり、研修医の分際でいっぱしの医者になったような気がしてくる。浅はかなプライドばかりが肥大して、常に上から目線で、ぜったいに自分の非を認めないような人間になってしまう。これは医者という職業の不幸だろう。

 白衣にかぎらず、大きな家に住むとか、高級車に乗るとか、あるいは高級ブランドの服や装飾品を身に着けるとかすると、人間が一階級上がったと勘ちがいする人もいる。有名大学を出るとか、大企業に勤めるとか、新聞に名前が載るとかも同様で、そんなことは人間の値打ちとは何の関係もない。

 話をマンガにもどせば、それを冷静に見抜いているのが久次郎の妻である。月に3回、江戸から出稽古に来る先生が、息子の勝太(のちの近藤勇)の上達をほめて、食事に卵の追加を要求するのを聞くと、『全くいやだね。みえすいた上手をいっちゃあ、めしをたらふく食べて引き上げるんだから』と、先生の本質を見抜く。

 先生が勝太を跡取りとして養子にほしいと言ったときも、久次郎は息子が武士になれると喜ぶが、妻は顔を曇らせてつぶやく。

『黒船は来るし、世の中は物騒だし、こんなとき刀をふり廻すより、調布で百姓をしとった方がなんぼか安心なことか』

 後に官軍に敗れて打ち首になる勇の未来を見透かしているかのような冷静さだ。勘ちがいをせず、地に足をつけて暮らしている女性のほうが、浮かれた男どもより、よほど真実が見えているということだろうか。

(『星をつかみそこねる男』より)

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